
十字架
当時の人々の反応に、あなたは驚くかもしれません。彼らは、せっかく来てくれた神を、またもや追い出したからです!
イエスは、イエスを疎ましく思った人の手によって都の外に追い出され、十字架の上で殺されました。
でもこれが、始めから神の計画でした。神は、罪を犯した本人が受けるべき罰を代わりに受けることで、人の罪を赦すと、あらかじめ決めておられたからです。
これが神の用意された罪の問題の解決でした。イエスは生前、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」と言っていました(新約聖書:ヨハネの福音書6章37節)。イエスが死んでしまった今、「イエスのもとに来る者」の運命は、どうなってしまうのでしょうか。
聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会
第7回:十字架
はじめの質問
- ものすごく偉い人に会ったことはありますか。その人に対し、どのように接しましたか。
- もし神が人となって私たちの世界に来られたとしたら、あなたはどう応対するでしょうか。
前回、創造主なる神が「罪の問題を解決する」という約束を果たすために、この世に御子を派遣したことを見ました。永遠の神、子なる神が、悪魔とそのわざを打ち負かすために人となったのです。これがイエス・キリストでした。今回は、子なる神が天で持たれていた「内の交わり」を出て、罪深い人間の世界に来られたときに何が起こったのか、見ていきましょう。
イエスはよく「たとえ」で話されました。たとえには意味が隠されています。ここでイエスのたとえ話をひとつ読んでみましょう。イエスの身に何が起こるかが生き生きと描写されています。
もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」
新約聖書・マタイの福音書21章33-41節
- たとえの象徴しているものを考えましょう。「家の主人」、「農夫たち」、「しもべたち」、「息子」は、それぞれ誰を表しているでしょうか。
- 家の主人が期待していた「収穫」とは何でしょうか。
- 農夫たちはどうしましたか。彼らはなぜそのようなことをしたのでしょうか。
- このぶどう園とエデンの園に見られる共通点は何でしょうか。
このたとえを話して間もなく、イエスは十字架につけられて処刑されました。イエスの同胞であるユダヤ人がイエスに科した宗教上の罪は「冒涜罪」でした。イエスが自分を神としたからです。ユダヤ地方を支配していたローマ人がイエスに科した罪は、暴動を起こそうとしたという「扇動罪」でした。しかしながら、聖書はイエスには何の罪もなかったことを明らかにしています。実際、イエスは「犯罪」に当たることを何もしなかっただけでなく、神の子として完璧に生きたイエスは、ひとつも「罪」を犯さなかったのです。心の中でも、です。にもかかわらず、イエスはエルサレムの都の外に追い出され、殺されました。聖書はイエスの死について多くを語っています。次の聖書箇所も、そのひとつです。
動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
新約聖書・へブル人への手紙13章11-12節
- ここで聖書は、イエスの死を、罪のために犠牲となる動物の死と比較しています。これと同じことを以前、聖書のどこで見ましたか。
- 聖書はイエスの犠牲は動物の犠牲より優れていると教えています。実際、イエスの死は「ただ一度ですべての罪に有効」のささげ物です。なぜイエスの犠牲はこのように優れているのでしょうか。
- どうしてイエスが聖なる都の外で苦しまれたことが重要なのでしょうか。
- イエスの死で流された血には、どのような意味(効果)があるでしょうか。
聖書はイエスとアダムを次のように対比しています。
第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
新約聖書・コリント人への手紙第一15章47節
「福音」のもとの意味は勝利の宣言だったと覚えていますか。次回、「イエスが死んで終わり」ではなかったことを見たいと思います。勝利のクライマックスはまだ先にあるのです。ただ聖書の視点では、イエスの死さえも勝利です。アダムの失敗に対し、イエスの死は勝利なのです。
- エデンの園に置かれた第一の人(アダム)と、第二の人(イエス)の死には、どのような対照が見られるでしょうか。
- なぜイエスの死は勝利なのでしょうか。
イエスは都の外に追い出され、仲間であるはずの人間の手によってむごい仕打ちを受け、殺されました。しかしながらイエス自身は、自分のもとへ来る人に対して、その人が受けるに値しない優しい約束をしています。
……わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
新約聖書・ヨハネの福音6章37節
おわりの質問
- イエスを十字架につけたのは誰の責任だと思いますか。
- イエスはあなたの罪を赦し、あなたを神との「内の交わり」に戻すことができると思いますか。